七胴落とし

七胴落とし (ハヤカワ文庫 JA 167)

七胴落とし (ハヤカワ文庫 JA 167)

子供から大人へという境目の不安、混乱、脅えを《精神感応》というSF設定を用いて描いた作品。こうした作品として切っても切り離せない(まあ、最近の作品はまた違う傾向かも)「おとなはわかってくれない!」という感情が再三繰り返される。それが終始鼻について読むのがしんどいという感想はもっともながら、どうにももったいないような気が。同様に、作品の素晴らしさを認めつつも、これを十代の内に読みたかったというのももったいない。まあ、単に自分が作品に感情移入・共感しながら読むのが苦手というだけなのですが。
「大人」になってしまうと、「子供」同士の精神感応能力が失われてしまう。19歳の誕生日を目前に不安に苛まれる三日月にとって、世界の手触りが異様にすぎる。とことん冷やかで怜悧でグロテスク。「大人」を含めて何にも信用がおけない世界がどこまでも他者のようで、人工的で、歪で、おぞましい。「予備校が太陽に熱せられて融けてまうことなく形を保っているというのは不思議な現象だ」と、世界をクールに眺めながらも、それに徹しきれない不安定な視線が恐ろしい。繰り返される、冷徹な性と死の雰囲気が
、この世界の陰鬱な魅力を盛り上げてくれる。
それに対し、早く「大人」になってねと願う家政婦(ものすごく官能的で、ひたすら恐ろしい)や、「大人」になることへの早々と諦観を察する友人や、とうに「大人」になってしまったもの、そして三日月の不安定さを促そうとする幻のような少女の月子、三日月をそそのかす登場人物たちの造形が誠に素晴らしい。「子供」同士の精神感応がほとんど共感で成り立っていながらも、どこまでも共感を許さないような世界からの無関心と、排除。最後にオチはある程度お約束でありながらも、「大人」からも「子供」からも疎外されたような、寂寥感だけが残る。やっぱりこういう点だけは妙な共感を感じてしまうのだが、この冷やかな空気が作品を鮮明に表現している。

研ぎすまされた刃のようなレールの上を高速ですべっている。レールの下方は奈落だ。もっと速く。より高く。レールが上下に、左右に、うねり、ぼくはその刃に身をまかせてすべってゆく。

象 (文学の冒険シリーズ)

象 (文学の冒険シリーズ)

ポーランドの不条理系短篇集(というか、掌編集)。どうしてもあの辺の地域の諷刺性は掴みにくい。それが歴史や国民性だったり、知識不足を感じざるを得ない(東欧諸地域の作品は大概、諷刺性が含まれているように感じるのは気のせいか?)。でも、辛辣な文明評や黒い笑いのナンセンスなバカ話、素直に楽しめる作品は多い。

表題作の「象」は、象のいない動物園で立身出世主義の園長が巨大なゴム製の象を置くというもの。この園長の妙案(というか奇手)に対して、みなボロクソに貶しつつ、結局象が子供たちの前で破裂するという、まあ当然のオチ。そして、最後の一文が「一方、その時動物園にいた生徒たちは、学業を怠り不良になった。酒を飲んだり窓ガラスを割ったりしているそうだ。象なんか金輪際信じようとしないのだ。」……あまりにストレートな落とし方で、開いた口が塞がらなかったよ。

まあ、作風も結構バラバラ。ブラックジョークからスラップスティック、パロディまでといった次第。一冊を通して、新鮮な思いで楽しめる。他にも、おじさんの豪放磊落なバカ話「おじさんの雑談から」、人間電信の「旅の道すがら」、ゴシック・ホラーもどきの「鷲の巣城の没落」などなど。なかなか愉快で痛快。

「ジグムシ、どうして学校に来なかった」
「ママがいうんだ。世の中に悪い場所なんてないけれど、家のなかでじっとしているのが一番だって」

本当の戦争の話をしよう

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

本当の戦争の話をしよう (文春文庫)

実際にベトナム戦争を体験した作者の短篇集。そうはいっても普通の戦争小説、ましてや反戦小説とは全く異なる作品群。ベトナム側から同戦争を描いたバオ・ニン『戦争の悲しみ』もかなりヘンな作品だったが。

もちろんここで描かれるのは戦争への憤りや反戦のメッセージあるのは間違いではないのだが、常にクローズアップされるのは戦争という巨大な異質性、またはその途方もない不条理に接した弱者たちだ。兵士たちの心の内の歪みをダイレクトに描くことで、作品に強大なヴォイスが備わっている。
「私が殺した男」を呆然と見つめ続ける兵士、通常ではありえないような光景が次々に現れる。または「兵士たちの荷物」では武器や食糧の重量をグラム単位で細かく綴りながらも、全く別種の重みが兵士たちに加えられていく。または、戦争の恐怖や怒りよりも先に、爆撃のなかにグロテスクな美をつかみ出してしまう表題作。人間の理性をぶっちぎるような異様さや矛盾が、当然のように語られる。ティムの死んだ兵士仲間が、別の話で生きているときのことが描かれたり、時空も超越している。ティムの周りのものは、全てがゴーストのようだ。でも、それが当然だろうと言われたら、反論できない。それほどに凄まじい。
「本当の戦争」とは何か? という問いが作中で繰り返される。また、戦後に娘から「パパは本当に戦争で人を殺したの?」と尋ねられもする。直球でヘビーな質問だ。作品では嘘っぱちとも語れば、ラブ・ストーリーやゴーストストーリーであるとも語る。質問への回答への照れや誤魔化しが含まれているわけではない。ただ、ティムが体ごとぶつかっていく。
戦争小説でありながらも、現実と幻想が同質であることを早々と看破してしまったような奇妙な作品群。奇想小説や幻想小説好きにも強く勧められ作品ではないだろうか。

結局のところ、言うまでもないことだが、本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。それは太陽の光についての話である。

蝶とヒットラー

蝶とヒットラー (ハルキ文庫)

蝶とヒットラー (ハルキ文庫)

モノ小説が好きです。夜の夢のなかでオブジェが鈍色に光る江戸川乱歩や、世界を百科全書のように掌握する澁澤、あるいはモノと記憶とがフェティッシュに混交する小川洋子や、はたまた脳内で広大なワンダーランドを繰り広げるスティーヴン・ミルハウザー等々。

本作もまたその系列に連なる作品。鳥獣の剥製、義眼、パイプ、ドール・ハウス、貝殻といったモノにまつわる様々な店が黄昏の東京の町から静かに浮かび上がる。その店が名前と住所が付されてはいるけれど、本当にあるのかどうか疑わしく思えてしまうような、どこか不思議で素敵だ。
これらをアーサー・マッケンやエドガー・アラン・ポー、あるいはヴィスコンティやリリアナ・カヴァーニの『愛の嵐』といった映画をコラージュにしながら、夢のまどろみに似た風景を描く。個人的には宮谷一彦の『孔雀風琴』なんて気になった。
でも、かなりエッセイ風の語り口は抑制がききすぎて、いささか物足りない。どこか久世光彦の一人語りといったようで、その語り口に引き込まれないのが……。しかし、ナチス軍服萌えの「地下軍装店」は乱歩とかとは異なった味わいで良い感じ。

私は一度でいいから四谷シモンの髪を金に染め、目に地中海の海色のコンタクトレンズを嵌めさせ、親衛隊の軍服を着せて立たせてみたい。飽かず眺めていたい。

ハグルマ

ハグルマ (角川ホラー文庫)

ハグルマ (角川ホラー文庫)

デヴィッド・クローネンバーグは決して好きな監督じゃない。ゲームとリアルとの境目がわからなくなっていく恐怖を扱うというベタなモチーフは好きなのに、『イグジステンズ』のしょぼさったら……(クリストファー・プリーストがこの作品のノベライズしてるけど、どうなんでしょうか)。『ハグルマ』の作中にも、ゲームにのめりこむ内に腰が痛くなってくるとあるけど、クローネンバーグを意識してのこと?

まあ、それはさておき本作はそれをもっと大胆に虚ろに崩してみせた傑作。ゲラゲラ笑いながら堪能。
現実と虚構との差の激しさから恐怖を徐々に盛り上げるのではなく、『ハグルマ』は序盤から現実そのものがズレている。現実も虚構も共にわけがわからず、お互いに競い合うように世界がコワレていく。説明も極端に省いてあり、心底凄い不穏感を覚えたものである。
お互いの意思(歯車)が噛みあわなくなっていき、中央の空洞が広がっていく。改行が非常に多い、説明的な文章がない、朦朧とした描写、擬音の多様といったように、露骨にスカスカな文体だが、この虚ろな世界観に非常に緊張感をもたせている。初めからテンションが狂ってるのに、どんどんドライヴ感がかかるところも凄い。深く考えずに、勢いにのって超スピードで読むと、かなりいい気持ちになれます、素晴らしい。

現実もゲームも、そんなおれを待ってくれたりはせず、ただ時間の経過に従い、目の前で様々なことが進行していくのだ。
勝手に。
おれの意志には関係なく。
まさに、目まぐるしい速度で――。

死者の軍隊の将軍

死者の軍隊の将軍 (東欧の想像力)

死者の軍隊の将軍 (東欧の想像力)

イスマイル・カダレよ、なんとかノーベル文学賞とってくれんやろか。別にこの賞の権威的な側面はどうでもよくて、絶版本を復刊してほしいだけなのだが。そう思ってるファンは数少なくとも、結構いるはずだ(と信じたい)。
第二次大戦中に戦死した自国軍兵士の遺骨を回収するために、某国(作中で明言されないが、どうやらイタリアらしい)将軍がアルバニア(カダレの故国)を訪れる。この任務に誇りをもっていた将軍が、作業が上手く進行せずにトホホとなる物語だ。近代的な文明国の代表たる将軍の目を通してアルバニアは野蛮な国だ、と描いてしまう辺りはなんとも自虐的だが、カダレはこれをニヤニヤしながら執筆したのではないだろうか。
兵士がどこに埋葬されているかを大体記録した地図を持参していても、第二次大戦から20年経っての任務だ、なにもかもが上手くいかない。現地の作業人とも上手く意思疎通が出来ない、掘っても掘っても遺骨が見つからない、挙句の果てに別の作業人たちに先に越されているといった不思議な事態が頻発し、作業は難航。「雨と死も至るところに」あるという雰囲気が非常に効果的に描かれている。雨に限らず、霧や汚泥、曇天、寒さといった陰鬱とした空気が累積し、徒労感に拍車をかける。
こうした陰鬱なアルバニアの地を掘り起こす作業が、次第にその国の血塗られた歴史に触れることへと繋がり、死者の声に耳を傾けることになっていく。面白いことに多くのアルバニア人に対し、某国側の人間は「将軍」「司祭」といった次第で名前が明示されないのだが、死者たちもまた「認識票」の番号で判別されるだけだ。アルバニア側の憎悪の塗れて、また戦争に対する自国の認識にズレを感じた将軍は、終盤決定的なまでの孤絶状態に陥る。この将軍の宙ぶらりんな感じがまさしく死者たちの存在と重なってくる。
アルバニアのじめじめした雰囲気が絶妙に描かれているのに対し、作品自体は悲しいまでの渇いた自虐とアイロニーに満ちている。なんとも不思議な作品だ。

彼は死せる者たちの将軍になっていた。だが今夜こそは奴らに立ち向かうのだ。そうだ、叛乱だ。

リトアニアのキッズアニメーション

一週間前の話だが、キッズプラザ大阪「リトアニアのキッズアニメーション」なるものを観てきた。別に子持ちでもないいい歳したおっさんが、こういった場に出かけるのは色々と気まずい……。

バルト三国で言えば、エストニアなんかはそこそこ名の知れたアニメーションのスタジオもあるし、作風も結構えげつなくて、日本でもわりと優遇されている。ラトビアリトアニアにも有名な作品があるのかどうか気になるところ。今回のリトアニアのプログラムにしても、子供(8〜16歳くらい、と言ってたかな?)制作の作品なので、あまり期待はせずに鑑賞。

まあ、技術や画力は拙いものの、そこそこに楽しんだ。基本的には数十秒から一分程度のショート・コントの連発で、ちょっとした思い付きを素直に絵にした感じ。唐突に変なことが起こり、唐突に話が終わり、オチがあるんだかないんだか……良くいえばバリー・ユアグロー風で、悪くいえば子供の2コママンガ?
魚釣りをしていたら、デカイ魚に丸呑みされて終わり。頭をうった鶏たちが縦隊で製肉工場に突撃。穴掘り名人が地球の反対側まで掘り進めて、そのまま宇宙の果てまで落下(引力は?w)。こういったブラック・ジョークが子供特有の発想法からきているのか、東欧諸国(まあ、リトアニアを東欧とは呼ばないと思うけど)に特有のアイロニーな嗜好からきているのか、どんなもんだろう。
こういったアニメーションを子供が画面に熱中して観てるかというと、そのようなことはなく、若干名を除いて皆ふらふらして騒いでたな(笑)。