儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴

ラストの一行の衝撃、いわゆる「フィニッシング・ストローク」というと、クイーンの『フランス白粉の謎』などが特に有名だろうか。しかし、ラスト一行で犯人の名が明かされはするけど、それまでに推理や検証の流れがあるため、そこに至る前に(メタ的に)読者は犯人の名がわかっているわけものだろう。ということもあってか、ちょっと「最後の一撃」テーマでこの作品を評価するのは、ちょっと微妙に感じてしまう(クイーンに『最後の一撃』という作品はあるが、内容は忘れた)。まあ、叙述トリックのミステリなどは最後の一行でうっちゃる作品も多いが、成功してる作品というとあまりないよう気がする(まあ気のせいかもしらんけど)。
メタ的な視点を含めて、「最後の一行」までネタが読者に想定されないという点では、やはり乾くるみイニシエーション・ラブ』に尽きるのかなあという思いがしなくもない(あの作品は「最後の二行」だが)。まあ、別の理由でこの作品はあまり好きではないのだけれど。
このようなメタ的な読み方は意地が悪いだけかもしれない。『儚い羊たちの祝宴』にしたって、やっぱり真相の手前でネタは読めてしまうので、「あらゆる予想は、最後の最後で覆される」という帯の言葉をちょっと間違っている。しかし、それはそれとして上手いのが米澤穂信。「最後の一撃」というテーマをほとんど落語の下げに近いレベルの芸に昇華している。大いに笑かしてもらいました。

本が出た当時の「黒米澤降臨」みたいな宣伝文はどうかと思うが、この黒いネタを「最後の一撃」で思いっきりギャグにしてしまっているフシがあり、そこが誠に素晴らしい。特に「身内に不幸がありまして」「玉野五十鈴の誉れ」のラストはほとんど冗談だろう(だからこそ、落語の下げ的な)。
「最後の一撃」をどうすれば効果的に衝撃にすることが出来るか、物語の構成云々よりも、ワン・センテンスの魅力にこだわりぬいた作品、いや素晴らしい。

「わ、わたし、わたしは。あなたはわたしの、ジーヴスだと思っていたのに」
喉に声が絡みつく。わたしは、必死で、言葉を搾り出す。五十鈴の表情が動いた気がした。
「勘違いなさっては困ります。わたくしはあくまで、小栗家のイズレイル・ガウです」