百年の孤独

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

昨年度の大きな宿題、結局新年に入って最初に読んだのがこれ。いきなり疲れた(新年最初に観た映画がテオ・アンゲロプロス旅芸人の記録』232分なので、もうグロッキー)。
架空の町マコンドの盛衰史百年を描いた大作。この町を切り開いたブエンディア一家の祖のホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランから物語は云代も下っていく。そのなかで一家の生死、愚行、町の進歩といったものが果てしなく繰り返されるように、ぐるぐると渦巻いていく。長大(超大)な記録だ。
しかし、この壮大さと似たような名をもつブエンディア一家の膨大な登場人物たちから、読んでいるそばから物語が忘却へと追いやられていく。これもガルシア=マルケスの策略ではないかと思うのだが、作品が盛衰史の記録である一方で、忘却を促すような記憶の物語でもあるからだ。
へんなことが起こっても、それが自然な文脈にあるようなマジック・リアリズムで作品が描かれており、途方もないバカ話が延々と続いたりする。魔法の絨毯といった他愛のないものから、伝染病の健忘症から部屋のあちこちに名札を貼るといった行為や、冥界への郵便配達といった次第に、どこか物語がオカシい。しかし、なかでも幽霊(といったものが、ありがちなようだが)の存在は妙にヘンだ。それが幽霊の常か家族や特定の人間の人にしか見えなかったりするのだが、もはや死んだことを忘れてしまっている。後に、自分が死んだことを思い出したら消失してしまうが、ずっと後にまたふらりと登場したりする。現世でもあの世でも癒せないような孤独を、自分のなかの忘却によって上手く支えている。あるいは、アウレリャノ大佐の17人の息子は皆虐殺されていくが、その最後の生き残りも周りの人間の忘却によって、結局殺されてしまう。
この「百年」という長い記録の縦軸のなかに、幾つもの忘却が横軸として組み込まれていく。あるエピソードが予告されて、そこから離れた箇所でそれが詳細に語られたり、物語が反復されるように描かれる。そういった仕掛の一つ一つも上手い。人間の長い営みのなかで、忘却という自然な行為の力強さを妙な形で実感してしまった。ある意味で、「百年の孤独」という巨大な敵への対抗手段のようだ。
最後はある記録の書のなかに物語の枠組みが回収・解消されてしまう。大胆な仕掛と大ホラとで頭が引きちぎれる思いをした。いつか再読したいものだが、そのときにはまた全く異なった感想を抱くことだろうて。

長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを視た、あの遠い日の午後を思いだしたにちがいない。マコンドも当時は、先史時代のけものの卵のようにすべすべした、白くて大きな石がごろごろしている瀬を、澄んだ水が勢いよく落ちていく川のほとりに、葦と泥づくりの家が二十軒ほど建っているだけの小さな村だった。