フライデーあるいは太平洋の冥界

ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』

あまりに有名な(でも誰も読んでない)『ロビンソン・クルーソー』の変奏曲。海難事故である島に漂着したロビンソンが、そこで出会った「野蛮人」のフライデーを西洋の文明と知恵で教え諭していくのがデフォー版か。一方のトゥルニエ版はというと、そんな生易しくはない。全く異なる位相と文化にある二人がそんな容易に歩み寄れるわけはなく、二人の生活は奇妙な接近、離散を繰り返していく。
とはいえ、主人公のフライデーが登場するのは物語の半ばを過ぎてから。最初ロビンソンは島の生活に戸惑いつつも、徐々にそこに馴化していく。いや、それを立法で統治しようとする。島に自分しかいないという事実は問題ではなく、それが彼にとっての安心を約束してくれるのだ。しかし、次第に自分の孤独に疲れ絶望し、フライデーが登場してからが非常にスリリングで面白い。というか、そこに至るまでは結構退屈だったというのも本音。
フライデーはロビンソンが作り上げた規則を次々に破壊していく。農作物は平気で枯らしてしまうし、サボテンに服を着せるなどロビンソンには理解できない振る舞いばかり続ける。この辺りで特に面白かったエピソードは二つ。
まず、フライデーが必ずしもロビンソンに対する反発から規則を破壊しているわけではないこと。住処でフライデーは水時計の沈黙とロビンソンの不在とが、常に関係していることに気づく。フライデーにとって動かない水時計こそが世界のルールが停滞するときであり、そういった時には平気でロビンソンの規則を蹂躙するが、そこにはフライデーの思考の道筋はある。また、彼は仇敵の雄山羊を倒し、その骨と皮から凧と楽器を作る。これこそロビンソンがしようとしなかった行為であり、「遊び」もまた立派な文明的行為ではないかということを再確認させてくれる。
こういったフライデーの「奇行」や火薬の爆発といった事故を通して、二人は接近し、いつしか文明人と野生人の合わせ鏡へと昇華されていく。最後に西洋人と共に島を去るフライデーと、島に居残るロビンソンとの対比はショッキングであり、このうえなく素晴らしい。
といったトゥルニエの作品から、レヴィ・ストロースの『野生の思考』の影響や作品の意味を読み取ることは出来るだろうか。ただし、18世紀の作品を下敷きにしているからというわけでもなかろうが、語りが大仰で退屈。ときおり挿入されるロビンソンの「航海日誌」や聖書からの引用ももたもたしており、個人的には物語に込められた意味を超える素晴らしさを感じとることは出来なかった。二人の関係がもっと果てしなく大胆なエピソードや筆致で描かれていれば好みなのだが、要はツボではない。

「わたしがだれだかわかるかね?」と彼はロビンソンの目の前で堂々と歩いてみせながら、たずねた。
「いいや」
「わたしは、野蛮人フライデーの主人で、イギリスのヨーク生まれのロビンソン・クルーソーだ」
「それでは、わたしはだれなんだい?」とロビンソンはびっくりしてたずねた。
「あててみろ!」