暗夜

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

残雪『暗夜』

この本が出た時点ですぐにジャケ買いし、即座に読んで「なんじゃこりゃ!?」。それから早一年(過去の読書録を確認したら、一年と一週間くらいだった……)、多くの本を読んで脳髄が吹っ飛んだり挫折したり、または保坂和志『小説の自由』なんてかなり目からウロコの体験だったり、とりあえず自分の読書の嗜好や読み方もだいぶ変わったことだろう。というか、嗜好のツボがかなり増えたのではあるだろうな。そして、今回再読した結果が「なんじゃこりゃ!?」。

どこか歪んだ不条理設定をカフカ的と呼ぶのは簡単だが、残雪の作品はちょっと違う(そりゃカフカじゃないんだからな)。作中人物たちのコミュニケーションのズレにどこか滑稽さを感じるカフカに対し、そのことで自分が世界から拒絶されているような恐怖すら感じる。他人は皆自分勝手に振る舞いはた迷惑このうえない、話す内容にも整合性が感じられない。家の外でさえも「草ではなく、なにか、硬い、移動しつつあるもの」と何がなにやらわからない。表題作に至っては、人語を解す猿だの道を常に爆走する一輪車だの明けない夜だの、残雪の非リアリズム的な想像力が徹底的に世界を歪める。私から一定の距離を保って眺められるものはない。一方で、「明けない夜」というのが共通する作品が多いのも、妙に示唆的だ。
しかし、この不定な世界が「わたし」の拒絶とも思えない。むしろ群盲象を撫でるが、世界の枠組みの組み込まれてさえいるのではないか。他者が「わたし」に暴力的な姿勢をとることも、比喩ではなく彼/彼女らが石を蹴るような至極自然な行為にすぎないのだろう。世界は常に一定の象を結ばず、安易な例えに頼るならば中国山水画のように奇妙な遠近法に則っている。いや、その「法」というパースペクティブがあるのかどうかも疑問なのだが。こういった夢の論理に満ちた幻想的な作品においては、リアリズム−非リアリズムという区分は何の意味もないのではないか。どこか私小説的な雰囲気のある「阿梅、ある太陽の日の愁い」にしても、世界のざらつき具合は凄まじい。
表題作も強烈だが、個人的にツボなのは「わたしのあの世界でのこと――友へ」「帰り道」。燃えさかる雹が豪雨のように降り注ぐ夜に恐れを忘れ陶酔させられる、それほどに一文一文が結晶のような前者。よく知っているはずの家へと赴き、突然「家の裏が万丈の淵なのだ」と知らない事実を告げられる後者は、世界の歪んでいく展開が滑らかで美しい。
二回読んでこの程度しか書けないの?と言われると、ちとキツイですが。この作品の意味や文化大革命との関連などを問われるならば、よくわからない。残雪の悪夢的な想像力と奇妙な接続で展開し続ける文章に徹底的に惚れこんだだけだから、意味はよくわからないし、今の時点ではどうでもいいのです。とにかく全篇素晴らしい短篇集です、来年また会おう。

「夜が明けるなんてことを考えさえしなければ、この家と折り合えるさ。夜は明けっこないのだ。これを肝に銘じておけば気持ちは落ち着く」