いつか王子駅で

いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

家でまったり珈琲を飲みながら読む。文庫で200ページにも満たない小品だが、行きつ戻りつ三日くらいかけて読んだのではないか。そのくらいののんびりさが、この作品にはあっていると思う。
堀江敏幸は不思議なまでに文章が長い。だらだらと無為に長いわけではないが、目に映る景色や人々に様々な記憶がまといつき、長い修辞を抱えて文章が続いていく。瞬時には文意を読み取るのが難しいものだが、それは大した問題ではない。ゆるゆると続いていく言葉に身を任せるのが素敵な体験なのだ。
場所は荒川だったか、特に土地勘のない身としては、頭の中が『こち亀』の人情話モード。そこでゆるゆると時間給講師をしている私の交遊録といった感じの作品。古書、童話、珈琲、路面電車、昭和の名馬たち……と多くの記憶や文芸批評、空想、思索と脱線を繰り返しながら、物語は緩急自在に続いていく。
「私」が島村利正の作品を引き合いに出して、「子供心に似たほのかな狼狽」に憧憬を寄せるシーンがある。ノスタルジアや昭和時代への愛着、と簡潔にまとめてしまっては、このニュアンスを外れてしまう。退屈で反復的な日常と、時折そこにはさまれる非日常的で新鮮な体験、この間で「目の前を流れていく光景に、刻々と更新される哀惜をもって接しなければならない」ことへの強い愛着こそが、新鮮な狼狽につながるのだろう。
堀江敏幸の不思議な文章が、夢と現の間をぬうように生まれる視点と、土地や人々との切っても切れないような間を生み出し続ける。なんとなく端正とか上品といったイメージがある作家(あるいは技巧的とか計算高いとか?)で、それはそれで間違いないのだろうが、それだけでは説明できない、かなりヘンな作家ではなかろうか。非常にオススメ。

やはり正真正銘の極道者だった時代があるのだろうか、左肩から上腕にかけてびっしりと彫られた紺青の龍の刺青が湯あがりに火照った肌からひときわ色濃く浮き出し、小柄な体を拭くために両腕を動かすたびところどころ金を蒔いたふうの龍の胴体がうなって顔見知りの常連客たちをも黙らせるほどの迫力があるのに、まるで生きているようなその龍の昇天を助けようというのかひとしきり水滴をぬぐい取ると、脱衣場に備えつけてあるぶらさがり健康器の下に立って鉄棒競技の開始を告げる姿勢で気をつけをしながら顔をあげ、ひょいとバーにつかまったままながいこと背筋を伸ばしているのだったが、無事に着地をすませると、順番待ちをしている様子の客たちにたいしてなのかそれとも自分自身にたいしてなのか、健康に留意せねばな、と低くつぶやき、そういうときだけ留意なんて言葉を使うものだから、まわりの人間はふっと感心してしまうのだった。