タタール人の砂漠

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

タタール人の砂漠 (イタリア叢書)

希望にすがろうとするも、それが報われないことへの焦慮、不安、恐怖……短篇集『神を見た犬』でも感じたが、ブッツァーティの描くものは結局これに尽きるのだな。何も起きないに等しい淡々と続く砂漠のような長編を、これだけでぐいぐい読ませてしまうのだから大したものだ。
兵士のジョバンニ・ドローゴはタタール人の襲来に備えた砦に配属される。とはいえ、実際はそのような襲来が起こるとは考えられず、どの兵士もなんとなく任務に励む日々をおくる。若いうちに別の場所に移ったほうがいいと上官に告げられるも、なんとなくタイミングを逸したまま、ただただ時間だけが流れる。

茫漠たる情景を前に起こりうるかどうかさえ不明な事態に備える部隊というのも、クッツェー『夷狄を待ちながら』のようだ。しかし、クッツェーのように積極的に前線へと攻めることはなく、ただ待ち続けるのみなのでより悲哀の面が強く感じる。
だいたいが戦闘・防衛に備えた砦なのだ、何も起こらないに越したことはない、起こらないほうがいいに決まっている。が、何十年という倦怠を超えて、皆がタタール人の襲来を心底祈り続ける。事件でも些細なことでも何か特別なことが起こってほしい、いや起こるに違いない。そこで描かれるのは希望や願いなどという甘っちょろいものではない。絶望・不安・焦燥にさいなまれつつも、何かが起こるという確信に近いものを抱こうとでもしない限りやってられない。
これは視線を全く動かさないという、あまりに奇異な小説なのだ。ただ孤独に耐えながら何十年と視線を据え続けた砂漠の先、終いにはそれが異界へと突き抜ける。それが幻影なのか、過剰な妄想力が産みだした幻覚なのか? だがラストに待ち受けるもの(死)はあまりにペシミスティックに感じられる。それでも、ちょっとかっこいいと思わせるあたりが、ブッツァーティのすごいところ。

口ずさんでいたのは兵士なのではなかった、寒さや、罰や、愛に感応する人間ではなく、よそよそしい山なのだった。なんと悲しい間違いなのだろう。