風の歌を聴け

風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

なんとなく読まず嫌いをしてた村上春樹。何故読まず嫌いと言われると答えにくいのだが、こういったみんな読んでる作家って、かえって読む気が失せてまうのは仕方がありまへん。それに伊坂幸太郎に代表されるような村上春樹に影響を受けて、その模倣から始まった小説が巷にあふれすぎて、あえてその原点に手を出そうと思わないのだわな。同様に感じる人はおそらく多いのだろうが、せっかくだから読んでみた。

一九七〇年の夏、海辺の街に帰省した「僕」が友人の鼠や偶然出会った4本指の女の子と遊んだりビールを飲んだり、退屈な日常を淡々とおくり続ける。バーでビールにフライドポテトやラジオを聴いたり精神科医に通った昔の思い出と、ちょっと黴臭い懐かしさはあるが、物憂げ、倦怠、虚無的といった登場人物たちのなんとなくな日常は現代的でもある。
まあ、倦怠といっても全力でつまらない日常を送っているわけでは無論ない。表面的に楽しく優雅に日常が流れるだけに、その虚無的な側面が際立っている。かといって、世界に唾を吐こうと構えているわけでもなく、どこか自虐的にすら感じられる。
それも「僕」の家族や昔の恋人が自殺や事故で亡くなっていることが大きく、自分と周りの世界との間に深く「死」の影がさしている。そういった屈折が他人とのわずかなディスコミュニケーションを生み出している。これは最後まで引きずるが、世界に一方的な伝達を行うラジオがラストで強引に世界をつなげてしまうあたりは上手い。村上春樹アメリカ文学からの影響という話はよく聞くが、こういったラジオの扱いも米文的だろうか(柴田元幸アメリカ文学のレッスン』にもあるように)。
とまあ、なかなか上手いなと感心したのは事実だが、自分の好みとの間にどこか釈然としないものを感じないでもない。虚無的な登場人物たちというモチーフが現在ではすっかり消費されて、また別のところに貫けているからだろうか? 物語というよりも、語りを細かくフラグメント化した感じは好きなのだけど。

僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものの間には深い溝が横たわっている。どんな長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。

あと、これは一方的なことだが、作中でフィーチャーされているビーチボーイズが好きじゃないんだ……(ついでに、フライドポテトも嫌い)。村上春樹ビートルズだとばかり思ってたら、これは違うのね。