猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

チェスや将棋で「最善の手」という言葉があるが、何故「最強の手」ではないのだろうか? 勝負を有利に進めるために「善い」と思える手を打つだけでなく、その人の生涯を盤上に映しだす為の「善い」手……それを表現する「盤下の詩人」リトル・アリョーヒンの物語。
アリョーヒンはチェスで戯れる。口が塞がっているという先天的な障害は主述で取り除いたが、それがためかアリョーヒンは口数が少ない。そんな彼にとってはチェスこそが言葉代わりに戯れる。そのチェスは常に相手への思いやりに満ちたものであり、対戦相手は彼との勝負が一番楽しかったと語る。だからこそ、作中で勝負の結果が描かれることは少なく、チェスの楽しさのみが生き生きと描かれる。チェスのルールを知らない読者でも問題ない。相手の良しも悪しも、その最善の手によって飲み込むアリョーヒンの一手は誠に美しい。

アリョーヒンがチェス人形に隠れて、チェスを指すというのも暗示的である。彼に必要なのはチェス版と駒のみであって、言葉は要らない。盤下に深く深く潜り込み、亡くなった師匠や愛する「ビショップ(象)」のインディラと語り合う。チェスは閉じ込められた空間から遠くに旅立つための道具にもなる。
また、本作はアリョーヒンのチェスとの出会いから始まり、賭けチェス、チェス人形、人間チェス、郵便チェスとあらゆるチェスが貪欲に取り込まれており、実に豪華な一冊ともいえる。それらを通して、アリョーヒンは旅を続ける。不思議な「一日」が半永久的に繰り返される小川洋子のなかでは珍しい作品だ。


ひとの生涯を盤上と棋譜に残し続ける詩人は、たったひとつの棋譜「ビショップの奇跡」によって歴史に名を残すことになる。彼の生涯は棋譜として「沈黙博物館」のように静謐とした空間に残され、同時に小説として我々の前に残される。

最強の手が最善とは限らない。チェス盤の上では、強いものより、善なるものの方が価値が高い。