鉄の時代

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

鉄の時代 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-11)

重たい……クッツェーの作品を読むのはこれが三作目だが、読んでいてしんどいと初めて思った。国家の帝国主義的なあり方や個人の暴力に対し、『夷狄を待ちながら』の民政官は半分諦念の観にあるし、『恥辱』ではそれでも飄々と生き抜こうとする。それに対し、『鉄の時代』のミセス・ヘレンは国家の鉄のあり方に己も鉄の構えで対抗しようとする。そして、それを独白という形式によって、声高々にうたいあげる、ときには独り語りが延々と続くこともある……非常に重たい一冊だ。

南アのケープタウンで反アパルトヘイトの嵐が吹き荒れるなか、ある日老女のミセス・へレンが末期ガンを宣告されるところから物語は始まる。そして、彼女は己が目にする現地の黒人への暴力の実態を、アメリカにいる娘への手紙で書き綴る。
かつては学校で教鞭をとっていたヘレンも、今は何も残されていない。そんな彼女がひとり強圧的な警官や権力者たちに立ち向かおうとする様は、勇敢というよりもむしろ痛々しく感じる。それによって何かが変わるというわけでもない。また、国を継承していくべき子供たちが次々に倒れていくのだ。人が死ぬことによってその血の重みが増すというのも、考えてみれば非常にグロテスクな光景だ。
国に立ち向かってもどうにもならない。しかし、立ち向かわなければならない。ヘレンと唯一会話らしきものをかわす者も、誰とも知らぬホームレスのファーカイルのみ。彼との会話も決して上手くいくわけではない。彼は全く信用ならないのだが、それ故信用せざるを得ないという結論に達したヘレンは、娘への手紙(遺書)を彼に託す。しかし、その遺書を彼が娘の下へ郵送するという保証はどこにもない。

どんなに強情に突っ張っていても、どこかに自分の居場所は必要になろう。たとえそこが暴動巻き起こるケープタウンであろうとも。告白対象の娘とコミュニケーションが容易でないファーカイルという二人の存在によって、クッツェーの「人との関係」というテーマが上手く浮き上がる。ラストの一行にはなかなかしんみりとさせられる。

鉄の時代。そのあとから、青銅の時代がやってくる。どれほどの時間が、周期的に柔和な時代がもどってくるまでに、いったいどれほどの時間がかかるのだろう――粘土の時代が、土の時代がもどってくるまでに。