旅をする裸の眼

旅をする裸の眼 (講談社文庫)

旅をする裸の眼 (講談社文庫)

世界を眺めるにあたって、「言語」を切り離すことは出来ない。それが様々な国を貫く物語であるなら、一層のことだろう。それにもかかわらず、多和田葉子は本作で視る世界と、それを表現する言語を切り離してしまった。

本作はロシア語を話せるベトナム系の女子高生の「わたし」が、講演のために東ドイツを訪れる。そこで知り合った男性から拉致まがいに、西ドイツへ連れて行かれ、さらにはサイゴンに戻ろうとした電車を間違えたことから、パリへ到着してしまう。常に「言葉」の異邦人に追いやられた少女の、1988〜2000年に至るまでの遍歴小説だ。

しかし、これが言葉を獲得しようと四苦八苦して、自分の立ち居地を見出していく……という展開には全くならない。むしろ、ときには主人公には言葉が邪魔になって、胃もたれのような感覚を与えさえもする。
というのも、彼女はスクリーン上のカトリーヌ・ドヌーヴに視覚で恋をしている。言葉がわからぬゆえ、物語の筋は常に推測によるもの。それでも、物語を解する(介する)ことなく、映画の魅力を視覚で感じ取り、同じ映画を何度も何度も飽きずに観続ける。一種の恋愛小説の変奏(彼女は常にドヌーヴに「あなた」と話しかけるのだ)として、非常に美しいシークエンスだ。

ドヌーヴ主演の映画はほとんど未見なので、そこにこめられた想いは正直よくわからない。が、彼女の遍歴もさることながら、多和田葉子の恐ろしい文章感覚に、読みながらぞくぞくしっぱなしであった。
日本語とドイツ語で創作活動を続けるという背景もあってか、様々な異言語の間で引きちぎられるような文章と、「わたし」の視覚とによって、非常に特異な読書経験を与えられる。とにかく恐ろしいが、非常に面白い一冊であった。

次は「わたし」と一緒にドヌーヴの映画を観ながら、本作の再読を試みてみたい。

「視力っていうのは裂け目みたいなものなんです。その裂け目を通して向こうが見えるんじゃなくて、視力自身が裂け目なんです。だからまさにそこが見えないんです」