日の名残り

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

日の名残り (ハヤカワepi文庫)

サッチャーがぶいぶい英国を変えていた(といっても首相期の晩年だが)、1989年に英国で発表された作品。その年のブッカー賞受賞作。

その時期の英国の理想主義的な側面を多少受け継いでいる。執事制度を基に、古き良き偉大なる英国の回顧趣味が半分。と同時に、英国という国の「夕日」を前に如何に前に踏み出していくか……という側面も描かれる。という象徴的な意味でも楽しめるが、やはり主人公のスティーヴンスから視た物語を楽しみたい。

戦前の外交政策で失敗をやらかしたダーリントン卿、そして雄大なるその邸宅。今では当時の面影もなく、物好きなアメリカの富豪が買い取った屋敷で、昔からの老執事スティーヴンスが家を切り盛りしている。昔辞めた女中頭のミス・ケントンへのスティーヴンスの思いは……。

とにかく、スティーヴンスの「信頼ならざる視点」の語りが上手い。
執事に最も必要な「品格」によって、己を完全に執事へと縛りつけることで、逆説的に視点そのものを怪しくさせる。昔は凄かった父親、人間的に優れた雇い主、……皆非常に素晴らしい人物として描かれる。でも、本当に完全に信用しきっていいのか? 女中頭のミス・ケントンへの儚い思いも全く描かれないことで、逆にその強い思いをありありと描いてしまう。

とにかく立派で執事の鑑としか思えないスティーヴンスだが、読者の目に映る彼は非常に気持ちが悪い。本当は自分の心に正直でありたいと思いは、常に奇妙な論理や子供じみた言い訳で覆い隠される。ミス・ケントンに恋愛小説を読んでいるところを見られたときも、「これは英語の勉強のためなのです」とくる……うーん、気持ち悪い。しかし、この気持ち悪さが増せば増すほど、作品に引き込まれていく。

ミス・ケントンが屋敷に帰りたいと思っているはずだ、という素敵な勘違いもラストでさらりと片付けられる。九割以上物語が終わったところで、ようやく素敵な思い込み人間スティーヴンスに好ましい感情を抱けるようになるのだ。そして、スティーヴンスの「人生の夕日」を前にした新たな一歩は、アメリカ人の雇い主をもてなすためのジョークの勉強。このとぼけた英国ユーモアがまた愉快だ。

英国の香気と、逆説的にそこから立ちのぼる粘着質な香りを同時に楽しめる、希有な一作だ。

夕日は一日でいちばん楽しめる時間なのかもしれません。では、後ろを振り向いてばかりいるのをやめ、もっと前向きになって、残された時間を最大限楽しめという男の忠告にも、同様の真実が含まれているのでしょうか。